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ファベーラ・ツアー

リオ旅行記の続き。

私たちが通りかかったのは、「サンタ・マルタ」という小さなファベーラ。
ファベーラは、いわゆるスラム街のこと。岩山の山肌にへばりつくようにして建っている家々はほぼファベーラといっても間違いない。一般的に治安が悪いエリアで、以前は地元の中層階級の住民でさえ近づくこともできなかったらしいが、現在は比較的治安の良いファベーラを観光資源として評価し、住民が集落の中を案内するツアーが行われている。
インフォメーションのそばに立っていた青年に声をかける。チャゴさんという30歳の男性で、この集落のファベーラ・ツアーガイドのリーダー格らしい。集落の右手(裏側)にあるケーブルカーにのってまず一気にてっぺんまであがり、そこから徐々におりていきながら集落を巡るという1時間半のコースで、1人50レアルくらいだったかな。
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中に入るとまず、最初に雑貨屋があって、表のテーブルにはおじさんたちが昼間からたむろって、タバコふかしながらビール飲みながらカードをやっている。いきなりビビる。
ぐんぐん坂を上っていく、左右に見える家はレンガやブロックを積み上げただけのような家々。排水がちょろちょろ流れていて、ときどききつい臭いがする。電気はふもとの街から勝手に電線を引っぱってきて使っているらしい…ときどき団子のようにこんがらかった電線を見た。
サンタ・マルタはもともと、ふもとにある教会の建設のために雇われた人々によって、1965年から75年にかけて作られた。集落のいちばんてっぺんに「ドナ・マルタ」とよばれる教会がある。これがサンタ・マルタのまちのはじまりで、そこから横や下に向かって徐々に集落が広がっていった。現在約6,000人がすんでいる。ドナ・マルタよりもう少し上には警察の建物があって、集落全体を警備している。ケーブルカーに乗るときにもポリスにであった。
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ケーブルカーに乗り込むと、口の周りに菓子くずをいっぱいつけた男の子が乗って来た。わたしとMAKOさんの顔をかわるがわるみながら、「日本人?」って聞いて来た。「そうだよ」と返すと「日本人、知ってるぞ!あんたはナカタか?」と聞いて来た。やっぱりサッカー王国だね。

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ケーブルカーを降りて、あちこちを歩いている間も、とにかくたくさんの子どもに出会った。顔の前で親指と人差し指をすりあわせながらニコニコ笑ってる。最初は「かわいいな」と思ってみてたんだけど、どうやら「カネくれよ」というジェスチャーだったらしい… 亮さんのワークショップに参加する子どもたちと同じくらいの年に見えるけど、たぶん彼らは満足に学校に行けていないんじゃないかと思う。

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サンタ・マルタは、以前からアーティストがよく出入りしていたらしい。マイケル・ジャクソンが「They don't care about us」のPVロケ地に選んだのをはじめ、マドンナ、ビヨンセもここを訪れている。また、オランダのアーティスト集団が滞在し集落の建物をペインティングするプロジェクトもあったそうだ。
この混沌・雑然とした、ファベーラに潜むエネルギーに魅せられる人の気持ちは理解できる気がした。

案内をしてくれているチャゴさんはアーティストだ。フォトグラファー、DJ&ダンサーとして活動し、それで生活している。ファベーラの様子を撮影した写真を見せてもらったがどれも魅力的だった。モノブロッコの関連企画で彼の写真展をやりたいと思っていたくらいだ。
チャゴさんが活躍しているアンダーグラウンドの世界のことを、MAKOさんはあまり好きじゃないと言った。わたしは歌手として、美しい言葉、美しい音楽を表現したい。スラングやネガティブな言葉では、人の心を曇らせてしまうのではないか、と。
そしたら、チャゴさんはこう返して来たそうだ。
美しい音楽だけが人を救える訳じゃない。この世界にはいろんな人間がいて、なかには悲惨な境遇のやつもいる。彼らの心を動かすのにはファンキでなくてはならない、そんなときもある。ダンスのおかげでマフィアの世界から抜け出すことができた仲間だっているんだ、と。
チャゴさんは、ファベーラに生まれ育ちいまもそこで生きているという境遇を、アートの力をかりて肯定的なエネルギーにしている。すごいたくましさだなと思った。
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ガイドがおわり、集落の入り口でさよならをして振り向いたとたん、すごい勢いで涙が出て来て、嗚咽するほどないた。あの子どもたちに会うために、チャゴさんに会うために私はブラジルに来たんだな。これがこの旅のほんとの目的だったのかもしれない、と思った。早く帰って、OVO NOVOの子どもたちに会いたい、と思った。

そして、3月11日がやってきた。

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思い立って、旅行記でも。

角田光代の「幾千の夜、昨日の月」というエッセイを、湯船につかりながらちびちび読んでいる。
たくさんの旅先での夜の風景を読み進むうちに、わたしはリオの旅のことをだいぶ忘れてるなあ…とおもった。ので、ちょっと書いてみようと思う。

3月10日。MAKOさんにお願いして、あちこちに連れて行っていただくことにしていた。
午前中、タクシーでポン・ジ・アスーカルへ。
「タクシーで」とひとことで書くとなんてことないけど、気安く自分で呼び止めたりしちゃだめらしく(ぼったくられたり、ちがうところにつれてかれたり大変らしい)MAKOさんがわざわざ知り合いのドライバーを手配してくれた。
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ポン・ジ・アスーカルとは「砂糖パン」という意味。
たしかに、どでかいコッペパンみたいなかたちをした岩山で、ふたつのロープウェイをのりついで頂上へ向かう。もう、ここまで高いと怖いとも何とも思わなくなる…というくらいの高さを、急角度でのぼっていくロープウェイ。眼下にひろがるビーチはあっというまにジオラマと化した。
山頂にたどり着いて時計を観ると、MAKOさんとの待ち合わせまで2時間近くある。
人ごみをさけて裏手の山道をすこしずつおりていくと、静かにたたずむ老人や、背中をぴったりくっつけたままそれぞれの読書にふけるゲイカップルやらにぽつりぽつりとであう。さらに人気をさけて緑が黒々と茂る林をおりていくと、光も影もおどろくほど濃くて、まるで渡辺亮さんの描く絵の中に入り込んだようだった。瞑想しているときみたいに、すっぽりと心が静寂に落ちていった。
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ポンジアスーカルからおりると、麓でMAKOさんが待っていてくれた。
ボタフォゴ、というまちを目指すことにした。景色を楽しみながら気の向いたところで時々おりて観光しようということになり、バス停へ向かう。
リオのバス停には時刻表がない。24時間ノンストップで走っているのだけど、いつ、どこ行きのバスがやってくるかはさっぱりわからない。まあ、30分も待ってりゃ来るでしょう、というかんじで、おしゃべりしながら気長に待つことに。…結局、45分もバス停でおしゃべりしていた。しかも、乗ったバスは表示と違う方向へ…!?あわててMAKOさんが車掌さんに尋ねると、「最終的にはそっちのほうへいくから」と。経由地を勝手に変更したらしい。あはは。ずいぶんな遠回りになることがわかったけど、結局そのおかげでいい体験ができることになる。
コルコバードの丘の麓のまちで一回バスをおりる。雲に隠れて巨大キリスト像は見えたり隠れたり。あちこちウィンドーショッピングしたあともう一度バスに乗り、ジャルジン・ポタニコ(植物園)通りを抜けてボタフォゴというまちへ向かう途中、MAKOさんがファベーラ・ツアーの看板を見つけた。
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…疲れたので、つづきはまた明日…


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備忘録

きょうの広島は朝から雪。そんなに寒くないんだけどなあ…
朝すこし早めにうちを出て、鷹野橋のサロンシネマで友人と映画を見て、
午後からは、いわきの友人と合流し、平和公園の碑めぐりにまぜてもらった。
ガイドしてくださった大月さんは、広島で義捐金を呼びかけ、たらちねに放射能測定器を寄贈してくださった中心人物だ。公園を歩き回り、碑の前で聞かせてくださった話には、これまで知らなかったこともたくさんあり、とても勉強になった。
その後、袋町小学校となりの市民交流センターに移動して、春風三平さんによる被爆体験を聞かせていただいた。
春風三平さんとはもちろん芸名、本名は月下さんとおっしゃる。ふだんは市内の教会の牧師さまで、お人形のしんちゃんとともに、腹話術による語り部活動をされている。もう40年以上にもなるそうだ。
67年前の8月、月下さんは爆心地から4キロの距離にある戸坂で被爆された。
2歳8ヶ月。被爆の直接的な記憶はないそうだが、お兄さんやご両親からの被爆体験を話して聞かせてくださった。
月下さんは、「原爆の子の像」の佐々木禎子さんと同い年。原爆投下から10年たった頃、禎子さんの死を知ってから、原爆症への不安をはじめて意識されたのだという。幸いなことに大きな健康被害を感じることはなく過ごされたとのことだが、被爆者手帳をお持ちで、注意深く過ごしてこられたとのことだった。

月下さんは話してくれた。
広島の人は長く、原子爆弾のほんとうの恐ろしさを知らされることなく生きていた。米軍は直後から調査をしていたのにも関わらず、その結果を長く隠して続けていた。原爆症で体調を崩す人々に、医師はなすすべを持てないまま十数年を過ごさなくてはならなかった、と。
福島でも、事故後ごく初期の段階で知らないうちに被ばくしている人たちの、その後の健康被害が心配だと。注意深く管理していくことが重要なのだ、と。

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わ。

アリオスの事業でベビーシッターをお願いしているウェンディの代表の三浦さんと、スタッフの吉田さんはなんと広島出身。とくに三浦さんは隣町の船越出身で、現在2人のお子さんと一緒にこちらで避難生活をされている。そして田人のふくふく牧場さんは安芸高田に身を寄せている… というわけで、近所のファミレスに集まってミーティングすることに。みっちり4時間、しゃべくりました!

夏の終わりくらいから、広島の有機野菜を、いわきで小さなお子さんを育てているお母さんたちに食べてもらいたい、ということで相談をしていた。これには紆余曲折があり、私はいったん挫折しかけたが、在広島の三浦さんとふくふくの奈津さんの尽力で、協力してくれる農家さん探しや、いわきでの販売拠点探しなど、ようやく、年明けからいよいよというところまで話がまとまってきた。
いわきでは、たとえばいわき農産物見える化プロジェクトや、いわき放射能市民測定室「たらちね」の開設など、放射能被ばくについて自己管理するための情報提供や設備の整備などが独自に進められつつある。国の示す基準を信頼することが難しい今、情報を自分でチェックしながら、少しでも納得(または少しでも不安を払拭)できる方法を、自分でひとつひとつ選択しながら生活しなくてはならないのだ。
子供たちに少しでも安全でおいしいものをと願う親御さんたちに、そうした「選択肢」を一つでも増やしてあげることができたら、と思っている。

今回のプロジェクトには直接関係ないものの、私の友人や親戚、恩師なども、いろいろ気にかけ支援してくれている。ほんとうに、ありがとう。

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