おじいちゃん

また、ちょっとへんなことをかきます。

夕方、ふいに、祖父のことを思い出した。わたしが高校2年生のとき、つまり25年も前になくなった、母方の祖父だ。
初孫ということもあって、私はよく面倒を見てもらっていたようだ。といっても、カブの後ろに私をのせて畑仕事に一緒に連れていき、そばで一人遊びをさせていただけではあるけれど。祖父の背中にぎゅっとつかまって山道を上り下りしたことは、よく覚えている。たぶん4-5歳の記憶だと思う。

実は、祖父はなくなる前の晩、たましいになってうちにきた。玄関の外にいる気配を感じたので外に出てみると誰もいない。あれ、おじいちゃんと思ったんだけどなあ、と思ったけど誰にも言わずにいたのだけど、次の日の夜明けに、心臓発作で突然なくなったのだった。あれは、さようならを言いにきてくれたんだなあ、と思った。母にその話をしたら、うらやましそうにしていた。

なくなった後も数年は、ちょこちょこ夢に出てきてくれた。祖父といる私は、いつも小さい頃の私だった。祖父にとっても私にとっても、一緒に過ごした記憶がいちばん濃いのがその頃、ということだろうな。
年を経てちょっとずつ、出演頻度は減っていった。おじいちゃんもそろそろ新しい生をうけてこの世のどこかにいるのかもなーとか思ったりもしていたのだけれど… 去年の春、祖父はまた私の前に現れてくれた。
リオで原発事故のニュースを知り、呆然としてまちを歩いていた時、道の向こうを祖父が歩いているのが見えたような気がした。
「おじいちゃん、あんとき、怖わーなかったん?」と訊いてみた。
「そりゃあのう、つとめじゃからの」と祖父は返してくれた。
あんとき、とは、8月6日の夜。以前にも書いたことがあるけれど、当時国鉄職員だった祖父は、被害の様子をみにいくために海田から徒歩で広島入りしているのだ。おぞましい光景を目の当たりにしたらしいという話を人づてに聞いていた。そして、それとはしらず、高線量のなかを。
あの時はわたしの心境もかなり極限だったので、あれは自分の心が見せた幻だっただろう。でも「つとめじゃからの」という答えは、やけにリアルだった。たぶん、そのときの祖父は、本当に「つとめだから」広島に向かったのだろうし… 
そんで、おじいちゃん、きょうは、何を伝えにうちのところへ来てくれんさったの?

実家に電話をしてみたら、なんと明日は、祖父の命日だそうだ。
つまり、25年前の今夜は、祖父がお別れをいいにきてくれた、あの夜だ。

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備忘録

こうしてブログに書くことをちょっと躊躇しつつも、やっぱり忘れたくないのでメモ代わりに。
ちょっと「おかしなこと」を書きますので、こういう話が不快な人は読み飛ばして忘れてください。


ゆうべ、帰宅してパソコンを開くと思いがけない人からメールが届いていた。
むかし制作を担当していたあるミュージシャンからだった。
いろんなことがあって、今は遠く離れた存在になってしまったけど、
20代のほとんどの時間、わたしはその人の影響を受けつづけ、現在に至っても、
わたしの行動や考え方のベーシックな部分に根付いているといっても過言ではない存在だ。
しかしそれほどに密着した存在だったので、離れることになったときに受けた傷も相当に大きく…
ま、忘れられない、重要人物であることに変わりはない。

その人が、メールを送ってきてくれた。
わたしの夢を見た、と書いてあった。
気になったのでちょこっと返事をしてみた。
ほどなくして戻ってきたメールには、
わたしがしんで、灰になって風に乗ってとんでゆき、彼の身体をきらきらと包み込む、
そんな夢だったのだと。
その夢がもたらしたメッセージにはつづきがあり、そのことも書いてくれていた。

それは確かに、今の私が受け取るべきメッセージだった。


すっごくとおくにある、ちいさな手鏡でひろわれた月の光に、顔を照らされるような。
あまりにも思いがけなくて、そして優しいはからいだなあとおもった。
神様、ありがとう。

もし、ほんとうに近いうちにわたしが命をうしなうようなことがあっても、
もしくはある意味それに値するような大転換が訪れたとしても、
すこしは落ち着いてそのことを受けとめられるような気がする。
すくなくとも、感謝をもって受けとめられるような気がする。

とりあえず今日は、まず家を掃除してから仕事に出かけます、あはは。

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8月5日

明日は67回目の8月6日。

去年の今は何をしていたんだっけなあ、と思ってブログを読み返してみたら、OVO NOVOの初遠征、旭川に行く直前だった。「来年の春から、ほんとうに独立して活動をすることなんてできるんだろうか」と書いていた。思えば、旭川への旅が、大きな転機だった。

子どもたちと一緒に、胸いっぱいにおいしい空気を吸い込んで、汗びっしょりになるまであそんで、
降るような星を眺めて、とれたての地物の野菜をいただいて。
1年前、旭川で過ごさせていただいた時間は、そんな一つひとつがまるで奇跡のような喜びだったのだ。

たくさんの人々に応援していただきながら、OVO NOVOは活動を続けることができている。
離ればなれになってしまった子もいるけれど。

「ぺこちゃんさー、この子たちの成人式とか、きっと泣いちゃうんじゃないのー?」
って、あるお母さんが笑いながら言った。
うん、たぶん。いやいや、ぜったいだね。

元気に、大きく育っていこうね。

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雑記

夜中に目が覚めて、ぼんやり物思いにふける。
最近、ひとりで無為に過ごしてしまう時間がだんだん長くなってきてしまった。
人に会うために街へ出て行くことも、たわいもない話してにぎやかに過ごすことも、そのこと自体がおっくうなわけではないんだけど、もっと、おだやかに人と関わる時間がほしいな、と思う。そしてそういう仲間や場所と、すっかり疎遠になってしまっていることに気づく。
降るほどの星空をねっころがって見たり、海の音をいつまでも聞きながら夜明かししたり、明かりを落として、声を落として、ゆっくり語り合う。そういう時間を一緒に過ごしてくれていた友人たちの何人かは、震災後いわきを離れてしまった。今もいわきに居る友人たちも、震災後仕事が激増し、なかなか会える時間がなくなってしまった。自分自身にも余裕はあんまりない。
東電から、「賠償金請求の申請を提出してください」という通知が届いた。わたしがいま必要としているものは、お金では買えないものなんだなあ、とあらためて気づかされる。

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雑記

FBとTwitterばっかりいじっていたら、全然文章が書けなくなってしまった!
自分の考えをまとめるのにはやっぱりゆっくり考えて書けるようにならないと…
というわけで、たどたどしくブログを再開したいと思います。

3月までは超過密スケジュールで、なにをやったか記憶がおぼつかないほどだったけど、
新年度になってからとつぜん現場がなくなって、戸惑っている間に1ヶ月過ぎてしまった感じ。
あちこちにでかけて人とゆっくり話をしたりするなかで、少しずつ自分が回復しつつある(というより、やっぱ自分は壊れちゃってるなあと認識する)のを感じる日々です。
GW中も基本的にお休みだったので、祭りを観に行ったり、「心の宿ゆうこ」にお客様を迎えたりしながらゆっくり仕事していました。

サンバ&アートグループOVO NOVO(WEB作成中)がこの春からグループとして独立することになりました。
4月29日に初めてのミーティングとワークショップを小川公民館で開始。
震災直後から1年間、実行委員会のみんなと準備して、やっと迎えたこの日。
新しいメンバーも加わって不安定な部分が多いし、私も企画者としてでなく一メンバーとして参加するというスタンスにまだ慣れてませんが… 
1ヶ月に1回の定期練習と、初心者を対象にしたワークショップ開催、市内・市外へのイベント出演がおもな活動。個々の技術やクリエイティブな感性を磨きながら、たくさんの人々に愛される、元気で楽しいグループを目指します。
3年後、オリジナルのアート・ライブが発表できることを大きな目標に、大人子どもあわせて40名のすてきなメンバーたちと一緒に、こころ新たに進んでいきたいと思います。

きのうはパーシャクラブのライブを見るために上京。
少し早めにいわきを出て、上野公園の「チャリティブックフェス」をのぞいてきました。
広場にずらーーーっとならんだテントには、子ども関連の本を各出版社が軒を連ねて販売していて、透明のお買い物ビニールバッグ片手にお気に入りの本を選び歩いて、会計テントでお支払いというシステム。そのほか震災時に被災地を巡ったという読み聞かせキャラバンカーが出てたり、人気の絵本作家さんのサイン会があったり…さながら「絵本天国」(お財布の中身が寂しすぎる私にはある意味地獄でしたけど…)というかんじでした。出版社の人たちもテント前で自ら絵本パフォーマンスをしてたりもして、とてもにぎやかなフェスでした。
この夏、公民館との協働事業にゲストでお呼びする絵本作家のおくはらゆめさんも参加。サイン会は人が途切れず、全然おしゃべりできませんでしたが、子どもたちがおくはらさんにぴとーっとくっついてお話ししたり絵を描いてもらったりしている様子を見て、「この方にお願いできてよかったなー」って改めて思いました。紹介してくださったメリーゴーランドの増田さんに感謝。

チッタのイベントは、今年で9年目になる「はいさいフェスタ」というミニ琉球フェスみたいなイベントでした。モール内には沖縄料理やお酒、物産のテントが並び、エイサーや島唄のミニパフォーマンスも。
そうだった、ここは沖縄から移住してきた人が多く住む横浜・鶴見区からほど近いのです。
イベントのメインであるクラブチッタでのライブは、パーシャクラブとその仲間たちが出演。
パーシャクラブは、今年の10月、1年越しで開催予定の「ワールドミュージックコレクション」にお招きするグループのひとつ。
新良幸人さんは石垣島白保出身で、のびやかな声とチャーミングなキャラクターの魅力的な唄者。パーシャとしてのパフォーマンスは初めて拝見しましたが…素晴らしいライブバンドでした。沖縄の代表的な民謡をアレンジした曲構成で、客席からは指笛の嵐。古くからの友人であるかのようにメンバーたちを下の名前で呼び、泡盛をのみながら音楽を楽しむ様子は、ライブというよりパーティというかんじ。この空気をいわきで出すのはさすがに無理かもしれないけど、こんなふうにくつろいだ雰囲気で楽しんでもらえたらなあ…!
というわけで、楽しく準備を進めていきたいと思います!

今日はこれから仙台ARCTの千田みかささんがいわきにやってきます。
お泊まりは「心の宿ゆうこ」。3月に横浜で行われたTPAMのラウンドテーブルでお会いしました。今回でお目にかかるのは2回目ですが… あのとき語り尽くせなかったあれこれを、ゆっくり伺いたいと思っています。 

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ゆれないで

「いわきでつくるシェイクスピア・ファイナル」の幕があいた。
プロジェクトは5年間続いたが、昨年は、本番の1週間前に震災が起き、そのまま中止となってしまったので、本番は4回目となる。これまでで一番の参加者、そして一番の集客が見込まれている。
明日は15:00開演。開演前、14:46にはお越しのお客様とともに黙祷をささげることになっている。私たちチケット係も、手を止めてともに祈りたいと思っている。
その日はできるかぎり心静かに過ごしたい、喪われた命のためにただいのりたい。でも、アリオスで明日いちにちを過ごせることが、私にとってはもっとも心静かに過ごせる方法かもしれないと思う。

1年前、リオに旅立つ前、なぜだかぜんぜん行きたくなかった。休暇とはいえ招聘するアーティストに会いに行くんだし、チケットやビザも早々と準備していたので行かないわけにはいかなかったんだけど。
相棒に自宅の鍵の在処を言いおいたり、仕事のファイルのバックアップをわかるところにおいておいたり、戻って来れないことを前提とした旅の準備をしていた。なんと遺書まで書いていた(笑)。
東京へ向かうスーパーひたちの車窓から、勿来の海をみるのがいつも楽しみなのに、うっかりうたた寝してみられなかったことをくよくよと後悔した。わたしは、てっきり自分の命がなくなってしまうんだとばかり思っていたのだ。

3週間して、帰ってきたら、大好きなだいすきないわきは、「被災地」になっていた。
それから1年。わたしは、住まいも、仕事も、愛する人も喪うことはなかったし、たくさんの人たちの愛に支えられながらなんとかいわきで生きてこれたことに心から感謝しているが、そんなわたしですら、なくしてしまったもののあまりの多さと重さに呆然とする。ここで生まれ育った人たちならばなお、その苦しみははかりしれない。

「起こることのすべてには意味がある」というけれど、今目の前にある試練はほんとうに乗り越えられるものなのだろうか。乗り越えられたとしたら、その先にあるのは、いったいなんだろう?
せっかくだから、すべてを味わい尽くしたい、と思う。命がなくなるまで。

どうか明日は、地上のどこも、ゆれませんように。

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おでかけアリオス。

今日は11回目の月命日。はやいなあ…
2月1-3日の3日間、メゾソプラノの菅家奈津子さんのおでかけアリオスだった。3つの小学校で、5回のコンサートを行った。
菅家さんは本来2月4日にアリオスでリサイタルも予定していたのだが、震災後の企画再編成でリサイタルは残念ながら中止、おでかけアリオスのみをお願いすることになった。事情をくみ快諾してくださった菅家さんにはありがたく、申し訳なくも思った。
今回の菅家奈津子さんのプログラムでは、途中、子どもたちに好きな歌を合唱してもらう場面があった。1コーラスめは子どもたちだけで歌い、2コーラスめ以降は菅家さんも子どもたちの列中に入り込み一緒に歌う。「昨日まで見知らぬもの同士だった私たちが、こうして歌によってつながることができる、これも音楽の持つ力の一つだよね」と菅家さんが語りかけると、子どもたちは目をまんまるくして、嬉しそうに笑ってくれる。
今日の午前中、宮小学校の1-3年生の選んだ曲は「あの青い空のように」。1コーラス目がおわって、子どもたちの中に入った菅家さんは唇をきゅっとむすび、うつむいてしまった。曲が終わると、伴奏の石井里乃さんも菅家さんもぽろぽろ涙をこぼし、なかなか言葉にならない。1年生の女の子が菅家さんに「感動しちゃったの?」と問いかけてきて、やっと笑いがこぼれた。
こうやって書いてしまうとなんだか月並みなことのようにも思えるし、出演者のほうが感極まってしまうなんてほんとはちょっぴり反則なんだけど… あまりの天真爛漫でまっすぐな歌声に不意をつかれてしまった二人の気持ちは、スタッフも含め周りにいた大人たち全員が共有していたと思う。というか、全員で胸いっぱいになってしまったのだ。
「ライブは交感である」ということを、改めて思い知ったハプニングだった。

学校でのおでかけアリオス、一部の番外編をのぞいて今年度分が全て終了したことになる。例年は40本程度だが、今年度は復興応援プログラムとして大幅におでかけアリオスの本数が増え、全部で75本となった。(あと2プログラム残ってますが)
4月に事務所業務が再開してすぐ、企画制作のメンバーで分担し市内の学校をまわって先生がたにお話を伺ったときのこと、たくさんの方から「アリオス頑張れ」と励ましの声をいただいたこと、6月に劇団ままごとのワークショップからおでかけアリオスを再開したときのこと… いろいろなことが胸に蘇ってきた。たくさんのひとに、助けられ励まされ続けながら、この11ヶ月を過ごしてきていたんだな… 
感謝して、生きていかねば。

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ファベーラ・ツアー

リオ旅行記の続き。

私たちが通りかかったのは、「サンタ・マルタ」という小さなファベーラ。
ファベーラは、いわゆるスラム街のこと。岩山の山肌にへばりつくようにして建っている家々はほぼファベーラといっても間違いない。一般的に治安が悪いエリアで、以前は地元の中層階級の住民でさえ近づくこともできなかったらしいが、現在は比較的治安の良いファベーラを観光資源として評価し、住民が集落の中を案内するツアーが行われている。
インフォメーションのそばに立っていた青年に声をかける。チャゴさんという30歳の男性で、この集落のファベーラ・ツアーガイドのリーダー格らしい。集落の右手(裏側)にあるケーブルカーにのってまず一気にてっぺんまであがり、そこから徐々におりていきながら集落を巡るという1時間半のコースで、1人50レアルくらいだったかな。
2011031016570000

中に入るとまず、最初に雑貨屋があって、表のテーブルにはおじさんたちが昼間からたむろって、タバコふかしながらビール飲みながらカードをやっている。いきなりビビる。
ぐんぐん坂を上っていく、左右に見える家はレンガやブロックを積み上げただけのような家々。排水がちょろちょろ流れていて、ときどききつい臭いがする。電気はふもとの街から勝手に電線を引っぱってきて使っているらしい…ときどき団子のようにこんがらかった電線を見た。
サンタ・マルタはもともと、ふもとにある教会の建設のために雇われた人々によって、1965年から75年にかけて作られた。集落のいちばんてっぺんに「ドナ・マルタ」とよばれる教会がある。これがサンタ・マルタのまちのはじまりで、そこから横や下に向かって徐々に集落が広がっていった。現在約6,000人がすんでいる。ドナ・マルタよりもう少し上には警察の建物があって、集落全体を警備している。ケーブルカーに乗るときにもポリスにであった。
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ケーブルカーに乗り込むと、口の周りに菓子くずをいっぱいつけた男の子が乗って来た。わたしとMAKOさんの顔をかわるがわるみながら、「日本人?」って聞いて来た。「そうだよ」と返すと「日本人、知ってるぞ!あんたはナカタか?」と聞いて来た。やっぱりサッカー王国だね。

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ケーブルカーを降りて、あちこちを歩いている間も、とにかくたくさんの子どもに出会った。顔の前で親指と人差し指をすりあわせながらニコニコ笑ってる。最初は「かわいいな」と思ってみてたんだけど、どうやら「カネくれよ」というジェスチャーだったらしい… 亮さんのワークショップに参加する子どもたちと同じくらいの年に見えるけど、たぶん彼らは満足に学校に行けていないんじゃないかと思う。

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サンタ・マルタは、以前からアーティストがよく出入りしていたらしい。マイケル・ジャクソンが「They don't care about us」のPVロケ地に選んだのをはじめ、マドンナ、ビヨンセもここを訪れている。また、オランダのアーティスト集団が滞在し集落の建物をペインティングするプロジェクトもあったそうだ。
この混沌・雑然とした、ファベーラに潜むエネルギーに魅せられる人の気持ちは理解できる気がした。

案内をしてくれているチャゴさんはアーティストだ。フォトグラファー、DJ&ダンサーとして活動し、それで生活している。ファベーラの様子を撮影した写真を見せてもらったがどれも魅力的だった。モノブロッコの関連企画で彼の写真展をやりたいと思っていたくらいだ。
チャゴさんが活躍しているアンダーグラウンドの世界のことを、MAKOさんはあまり好きじゃないと言った。わたしは歌手として、美しい言葉、美しい音楽を表現したい。スラングやネガティブな言葉では、人の心を曇らせてしまうのではないか、と。
そしたら、チャゴさんはこう返して来たそうだ。
美しい音楽だけが人を救える訳じゃない。この世界にはいろんな人間がいて、なかには悲惨な境遇のやつもいる。彼らの心を動かすのにはファンキでなくてはならない、そんなときもある。ダンスのおかげでマフィアの世界から抜け出すことができた仲間だっているんだ、と。
チャゴさんは、ファベーラに生まれ育ちいまもそこで生きているという境遇を、アートの力をかりて肯定的なエネルギーにしている。すごいたくましさだなと思った。
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ガイドがおわり、集落の入り口でさよならをして振り向いたとたん、すごい勢いで涙が出て来て、嗚咽するほどないた。あの子どもたちに会うために、チャゴさんに会うために私はブラジルに来たんだな。これがこの旅のほんとの目的だったのかもしれない、と思った。早く帰って、OVO NOVOの子どもたちに会いたい、と思った。

そして、3月11日がやってきた。

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思い立って、旅行記でも。

角田光代の「幾千の夜、昨日の月」というエッセイを、湯船につかりながらちびちび読んでいる。
たくさんの旅先での夜の風景を読み進むうちに、わたしはリオの旅のことをだいぶ忘れてるなあ…とおもった。ので、ちょっと書いてみようと思う。

3月10日。MAKOさんにお願いして、あちこちに連れて行っていただくことにしていた。
午前中、タクシーでポン・ジ・アスーカルへ。
「タクシーで」とひとことで書くとなんてことないけど、気安く自分で呼び止めたりしちゃだめらしく(ぼったくられたり、ちがうところにつれてかれたり大変らしい)MAKOさんがわざわざ知り合いのドライバーを手配してくれた。
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ポン・ジ・アスーカルとは「砂糖パン」という意味。
たしかに、どでかいコッペパンみたいなかたちをした岩山で、ふたつのロープウェイをのりついで頂上へ向かう。もう、ここまで高いと怖いとも何とも思わなくなる…というくらいの高さを、急角度でのぼっていくロープウェイ。眼下にひろがるビーチはあっというまにジオラマと化した。
山頂にたどり着いて時計を観ると、MAKOさんとの待ち合わせまで2時間近くある。
人ごみをさけて裏手の山道をすこしずつおりていくと、静かにたたずむ老人や、背中をぴったりくっつけたままそれぞれの読書にふけるゲイカップルやらにぽつりぽつりとであう。さらに人気をさけて緑が黒々と茂る林をおりていくと、光も影もおどろくほど濃くて、まるで渡辺亮さんの描く絵の中に入り込んだようだった。瞑想しているときみたいに、すっぽりと心が静寂に落ちていった。
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ポンジアスーカルからおりると、麓でMAKOさんが待っていてくれた。
ボタフォゴ、というまちを目指すことにした。景色を楽しみながら気の向いたところで時々おりて観光しようということになり、バス停へ向かう。
リオのバス停には時刻表がない。24時間ノンストップで走っているのだけど、いつ、どこ行きのバスがやってくるかはさっぱりわからない。まあ、30分も待ってりゃ来るでしょう、というかんじで、おしゃべりしながら気長に待つことに。…結局、45分もバス停でおしゃべりしていた。しかも、乗ったバスは表示と違う方向へ…!?あわててMAKOさんが車掌さんに尋ねると、「最終的にはそっちのほうへいくから」と。経由地を勝手に変更したらしい。あはは。ずいぶんな遠回りになることがわかったけど、結局そのおかげでいい体験ができることになる。
コルコバードの丘の麓のまちで一回バスをおりる。雲に隠れて巨大キリスト像は見えたり隠れたり。あちこちウィンドーショッピングしたあともう一度バスに乗り、ジャルジン・ポタニコ(植物園)通りを抜けてボタフォゴというまちへ向かう途中、MAKOさんがファベーラ・ツアーの看板を見つけた。
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…疲れたので、つづきはまた明日…


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備忘録

きょうの広島は朝から雪。そんなに寒くないんだけどなあ…
朝すこし早めにうちを出て、鷹野橋のサロンシネマで友人と映画を見て、
午後からは、いわきの友人と合流し、平和公園の碑めぐりにまぜてもらった。
ガイドしてくださった大月さんは、広島で義捐金を呼びかけ、たらちねに放射能測定器を寄贈してくださった中心人物だ。公園を歩き回り、碑の前で聞かせてくださった話には、これまで知らなかったこともたくさんあり、とても勉強になった。
その後、袋町小学校となりの市民交流センターに移動して、春風三平さんによる被爆体験を聞かせていただいた。
春風三平さんとはもちろん芸名、本名は月下さんとおっしゃる。ふだんは市内の教会の牧師さまで、お人形のしんちゃんとともに、腹話術による語り部活動をされている。もう40年以上にもなるそうだ。
67年前の8月、月下さんは爆心地から4キロの距離にある戸坂で被爆された。
2歳8ヶ月。被爆の直接的な記憶はないそうだが、お兄さんやご両親からの被爆体験を話して聞かせてくださった。
月下さんは、「原爆の子の像」の佐々木禎子さんと同い年。原爆投下から10年たった頃、禎子さんの死を知ってから、原爆症への不安をはじめて意識されたのだという。幸いなことに大きな健康被害を感じることはなく過ごされたとのことだが、被爆者手帳をお持ちで、注意深く過ごしてこられたとのことだった。

月下さんは話してくれた。
広島の人は長く、原子爆弾のほんとうの恐ろしさを知らされることなく生きていた。米軍は直後から調査をしていたのにも関わらず、その結果を長く隠して続けていた。原爆症で体調を崩す人々に、医師はなすすべを持てないまま十数年を過ごさなくてはならなかった、と。
福島でも、事故後ごく初期の段階で知らないうちに被ばくしている人たちの、その後の健康被害が心配だと。注意深く管理していくことが重要なのだ、と。

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